NARAYA CAFEと宮ノ下
NARAYA CAFEはここ宮ノ下の地で300年以上続いた奈良屋旅館を母体として生まれました。
奈良屋は江戸時代には湯治宿、明治時代はNARAYA HOTEL、その後は純日本旅館として、時代ごとに形を変え、様々な人たちに愛されてきました。
旅館は2001年5月に閉館しましたが、日本のリゾートの歴史が息づく宮ノ下の地に新たな交流の場を作りたいと思い、NARAYA CAFEプロジェクトはスタートしました。
足湯は奈良屋旅館時代の源泉を利用しています。
また、カフェの建物は従業員寮などを改装して作りました。
ロゴの由来
NARAYA CAFEのロゴは明治時代、 NARAYA HOTELと名乗っていた頃に使われていた 荷札をもとにデザインしました。
ならやあんのロゴは奈良屋旅館で桶や下駄に押していた焼き印をもとにデザインしました。
なぜひょうたん?
奈良屋旅館、NARAYA HOTELの時代から様々なものにひょうたんのモチーフが使われていました。
なぜ、ひょうたんなのでしょう?
実は、豊臣秀吉と関係があります。
秀吉が小田原城を攻めた際に、ここ宮ノ下の地(底倉)に石風呂を作り、その温泉で兵士を療養しました。
その秀吉の馬印(戦場で武将が己の所在を示すために用いた印)がひょうたんだったので、いつの頃からか、まちのシンボルマークとなりました。
カフェやならやあんの店内、宮ノ下のまちにも、たくさんのひょうたんがかくれています。
散策がてら、探してみてください。
奈良屋旅館と宮ノ下の歴史
ここではNARAYA CAFEの母体となった奈良屋旅館の歴史について概観します。
奈良屋旅館の創業時は定かではありませんが、初代は江戸元禄期(1700年前後)に湯宿としての営業を始めたものと思われます。
江戸後期、奈良屋の湯は湯船に映る三日月が満月になるまでこの湯で湯治をすればどんな難病でも快癒することから名湯「三日月湯」として喧伝されていました。
江戸末期になり一夜湯治が公認されるようになると、諸大名やその家族が本陣として宿泊するようになりました。
このように格式の高い宿であったため、幕末以降は外国人達の人気の滞在先となりました。
その後、奈良屋は宿名を「Naraya Hotel」と改称、富士屋ホテルと外国人客をめぐって熾烈な顧客争奪戦を繰り広げました。そのため1893(明治26)年に両者で協定を結び、富士屋は外国人専用、奈良屋は日本人専用とすることで棲み分けを行いました(大正はじめまで)。
その後、奈良屋は多くの政財界人に愛され営業を続けてきましたが、2001年6月、相続の負担などにより300年余りの歴史に幕を閉じました。